(注)本稿は、第10章まである「大きなシステムと小さなファンタジー」(影山知明さん著)のあとがきに、読者はこの本の第11章を書けという指令、もとい提案があるので、あとがきまで読まなければよかったなあと思いつつ、しょーがないので書いてみたものです笑。 文体も真似してみたのだけれど、成功しているかどうか。
【11-1 酒場は時代をつくらない】
時代はカフェからつくられる、という。
そうしたときに、どうして、ぼくらの会社はカフェでなくて酒場をやっているのか?おのずとそういう疑問が湧いてくる。
単純に酒場って楽しいじゃん。そう言い切ってもいいけれど、カフェだって楽しいと言わればそうである。
じっさい、ぼくが大学生のときに開業に携わった国立市にあるカフェは「カフェ ここたの」という名前で、「ここに来ると楽しい」の略である。(カフェの開業に関しては影山さんより早いのだ!)
カフェが時代を作るとしたら、思索や議論にふけることのできる場所だからだろう。都心の高級な料亭を酒場と呼ぶのであれば、そこで政財界のドンが時代を作っているのかもしれないが(知らんけど)、場末の酒場は時代を作らない。
酒場はむしろ時代を忘れる場所である。カフェは時代を選択し、酒場は時代を洗濯する。
おそらくは、今を忘れて明日の元気をつくるという目的のために、ぼくたちの酒場は存在している。
そして、ぼくらはそういう場所が好きである。そうとしか言いようがない。
【11-2 大きなシステムのなかにいる】
かなり乱暴にいえば、カフェというのは香りを楽しむ場所である。
時代を作るようなカフェ(クルミドコーヒーを含む)には独特の空気がある。あるいは、匂い。酒場は匂わないというか、むしろそういうのを嫌う。ぼくらの会社には飲食店(酒場)が2店舗あって、味気ない内装ということでもなければ、無味乾燥な接客でもないけれど、絶対的な強い思いというものはない。
本のタイトルになぞらえれば、その香りはファンタジーを信じることから生まれてくるものだ。カフェはファンタジーを作り出す魔法使いの専売だ。
酒場はリアルで起きた諸々をニュートラルに戻すことを意図しているから、リアルの範囲から逸脱することがない。所詮は、大きなシステムのなかにいて、でも、そのことを誇りに思ってもいるのである。
【11-3 諦念があるかないか】
しかして、ソーシャル・ビジネスには2種類あるということだろう。ソーシャル・ビジネスというのは、社会課題を解決することを目的としたビジネス(=商品・サービスの販売)のことである。
現在の社会のパラダイムのなかで、それを改善する方向性のソーシャル・ビジネス。現在の社会のパラダイムを否定、あるいは革新するためのソーシャル・ビジネス。この2種類である。
エマリコくにたちの指向性は明らかに前者だ。起業パートナーで副社長の渋谷が、会社のWEBサイトで「社会的価値があるのに経済的価値につながりにくいことを事業化したい」と述べているが、ここでいう経済的価値とはあくまで日本円(一般的通貨)のことであり、僕たちの会社は資本主義を少しずつ変えていくことを目指している。資本主義が素晴らしいとはまったく思わないのだけれど、そこにはある種の諦念があって、どうせ資本主義であるならば少しでもよい資本主義にしたい、と考えている。
ぼくも渋谷も経営学科出身で、第7章では「経営学も一つの学問分野として、科学的にあろうとした」と指摘されているが、そういうところの限界なのかもしれない。ファンタジーを提示する魔法能力に憧れはありつつも残念ながらその能力は持ってはいないので、もし異世界に転生したのなら、科学大学ではなく魔法学校に通ってみたいなとは思う。
目指している最終的な社会は、たぶん、クルミドコーヒーと大きくは違わない。じっさい、クルミド大学野菜学部という取り組みでは影山さんと協同して、楽しかったしなにも問題がなかった。けれど、同じ山頂に行くにしても、ルートAとルートBから登ったときに、歩調が合わないこともあるのかどうなのか。この本を読みながら考えていたけれど、答えは出ていない。
【11-4 流通企業は黒子】
なんといっても、ぼくたちの大本には、商売というものは面白い、という思いがある。
資本主義からして、ここまで巨大なシステムになったのは、商売というものが人間の本源的なところに根ざしているからだと思う。
そして、商売人は本能として匂いを嫌うのである。先入観はビジネスチャンスを逃すから。そのかわりに、確たる足場がない。
ぼくは、「東京農サロン」や「多摩CBディスカバリー」といったイベントの主宰のひとりだけれど、これらのイベントは色や香りが薄いものになっていると思う。うまく言えないのだけれど、参加者の温度は高いけど、ムワッとはしてこない感じだ。
このことは、エマリコが流通企業であることにも通じる。流通企業とは、生産されたものを紹介する仕事である。あくまで主役は生産者なのだ。Aさんという生産者を面白がりつつ、ぜんぜん違う考えを持っているBさんという生産者を面白がる。僕たちにとってお店はそういうことの紹介装置である。独自の思念を持たない。
もちろん大切にしている理念はあるが、それは「楽しい食卓をサポートする」というじつに香気のないものになっている。ぼくらは黒子だからそれでいい。
【11-5 勇者の経営】
もうひとつ、クルミドコーヒーの興味深いところは、動的平衡という概念を持ち込んでいることだ。商売人たる企業は、柔軟性がなくなることを嫌うから足場がなく、であるからして、もとより動的になりやすい。そうして、創業から何十年も経って今さらながらに「パーパスがだいじだ!」などと叫ぶ。(おっと、まずい、いつもの調子になってきた。)}
クルミドコーヒーは事業計画を作るのをやめたというけれど、事業計画や予算は仕組み化の典型的なものである。ぼくたちの会社には存在する事業計画や予算は、ポジティブに言いかえれば有言実行の仕組み化なのだが、これはエントロピー増大の法則に対抗して固定しているのである。まさに植物や森を育てようとするのとは逆な方法だ。きちんと組み上げられているときは強いが、どこかが壊れると脆い。
そうは言っても、ヒトは、耐震性を高めようと思えば、柱を太くし、かすがいを多くしてしまう。怖いのだ。
だから、動的平衡の前提には、大いなる勇気がある。
動的平衡経営のなかでは、一時的に、これはやばいな、と思えることもあるだろう。それでも物事をロックしない。柳のように受け流す。
これは勇者の経営だ。}
【11-6 さくらんぼを探さない勇気】
あるいはこうも言えるだろう。
以下の一節が第5章で紹介されている。
「さくらんぼは人生で、それを実らせるのが桜の木。
みんな、逆に思うかもしれないけれど、
人生は、愛の木に育つ甘いさくらんぼ。」
たぶん、このことは、みんな気づいている。薄々は。
だけど、プロの農家さんだって栽培に失敗することがあるのだ。ちゃんと実るかどうかは運まかせのところもある。
人生にさくらんぼが実らないと想像したら、恐怖である。映画やマンガでも愛は裏切られると相場が決まっている。そうして、僕たちは、木を育てないで、さくらんぼを探している。ひたすらに。
木をじっくりと育て、その果実を待つことができるのは、未来を信じることのできる勇気ある人である。
ここまで思ったより長く書いてきて、そろそろ終わりにするのだけれど、ぼく自身の物語ではなく、書評のようになってしまった。あれま。でも、まあ、それもぼくらしさということでいいだろう。
ということで。
魔法使いでもあり、勇者でもある。
そんななんとも贅沢な物語を聞くために、今日もクルミドコーヒーには人が集っている。そんな気がする。